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WordsofGold’s blog

「アートとは何か?自分の内側にある美を探すこと。それこそがアートだ。」「私は自身を大きく開いていく必要がある。自分自身を見つけ、人間とは何かを思い出すため、人間の美しさを、あなたの美しさを思い出すために。私は人間がどれほど美しいかを見せる必要がある。まさに今。」アレハンドロ・ホドロフスキー

新海誠の作品には何が必要なのか?

君の名は。 新海誠 評論 映画

※本稿は新海誠の作品(『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』および『君の名は。』)に関するネタバレを含んでいます。ご了承ください。

※また、本稿は長文です(約7,700字 400字詰め原稿用紙換算で約27枚相当です)。お時間のあるときにご一読ください。

 

 私が初めて新海誠の映画を観たのは、TSUTAYAで借りた『ほしのこえ』だった。脚本、作画、演出など映画制作のほとんどを新海氏が一人で担当した30分弱の短編アニメーションだ。

 

(C) Makoto Shinkai / CoMiX Wave

 

 当時、気鋭のアニメ作家が現れたということで評価が高く、私も面白く観た。

 予告編を見ればわかるとおり、映画作品として瑕疵も多かったが(声優やキャラクターデザインのクオリティー、ベタベタの音楽等)、背景美術はそれまでのアニメになかったものだったし、何よりすべてを一人で作りきったという点に驚かされた。

 ケータイメールの着信に要する時間が、宇宙と地球で引き裂かれるヒロインと男の子の物理的、そして精神的距離を表しているというメタファーはとても優れていたし、ただ単にセカイ系の作品であるということ以上に、ゼロ年代初頭の時代感とこの作品はリンクしていた。

 時代と共振する作品は少ない。それは優れた作品の条件でもあるわけで、これから制作環境や体制が整備されていったら、この人はどんな作品を創るのだろうと楽しみに思ったのを覚えている。

 

 次に新海誠の作品に触れたのは、『秒速5センチメートル』という映画だった。新海氏にとって劇場公開三作目となる作品で、ストーリーの連続する三つの短編で構成される約1時間のアニメ映画だ。

 

(C) Makoto Shinkai / CoMiX Wave

 

ほしのこえ』を観てから一、二年後に本作を観たのだが、当時とてもがっかりして映画館を出たことを覚えている。

 まず、声優のクオリティーが『ほしのこえ』とほとんど変わっていない。本作にどれだけの制作費がかけられていたのかわからないが、自主制作だった『ほしのこえ』よりは制作費があったとすると、積極的にこの声質、演技をチョイスしたということだろう。

 主人公は幼馴染の女性と相思相愛の関係だが、二人は栃木と東京、やがては栃木と鹿児島へと物理的に離れていき、音信不通となっていく。こうして主人公はかつての村上春樹的「喪失感」を抱えて大人になっていくのだが、その主人公の心情が観客に対し説得力を持って劇中で語られることはない。ただ自閉した男性の声で、延々と主人公の内的独白が続き、クリスチャン・ラッセンのような光線と色調で誇張された写真のような背景がこれでもかと挿入されることで、主人公の心象の表現が試みられているが、その試みが成功しているとは言い難い。

 

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(C) Makoto Shinkai / CoMiX Wave

 

 この二作を通じてわかるのは、新海氏は男性の視点で、女性を失ったことに対する喪失感を、物語の力や脚本の技術を用いてではなく、背景美術によって描こうとしているということだ。

 さらに重要なのは、新海作品に出てくる男女は、二人の間の好意が暗黙のうちに合意されており、その成立過程が観客に丁寧に提示されてはいないということだ。

『秒速』の主人公はその後の人生に大きく影響を与えるほどの喪失感を抱えているわけで、その喪失感と等価な関係性がヒロインとの間にあったと考えるのが自然だが、だとすると、そのような特別な関係性とは一体何なのか?

 それは作品では全く明らかにされない。男女間の関係が極めて特別でなければ成立しない物語であるにもかかわらず、その特別性が説得力を持って、明確に観客に語られることはない。主人公とヒロインの「特別な」関係を認知し、共感するためには、観客の主体的な理解、共感が要求される。

 さらに言うと、新海作品では主人公がヒロインと価値観や意見の相違に直面したり、その相違を超克したりする描写はなく、ぼくは、ぼくは、ぼくは……と、暑苦しいまでの女性への思いや自分の抱える孤独感がひたすら独白されるだけという、極めて一方的な内面の開陳を観客は見せられる。

 このような相手に対する一方的な思いのぶつけ方というのは、誰しも身に覚えのあるものだろう。それは精神的に未成熟な思春期によく見られる、コミュニケーション不全の一例であって、たいていの人はそのような、後から振り返ると恥ずかしい経験を重ねながら、大人へと成熟していく。

 新海氏は作品を通じてそういった思春期特有のいびつなコミュニケーションの有り様を描こうとしているのではないか、という制作意図も考えられるが、残念ながらそのような客観性、意識的な演出は劇中皆無である。

 新海作品では主人公とは別個の、固有の内面を持った「他者」としてのヒロインは登場しない。すべての女性は主人公に好意を寄せることを暗黙の大前提とした都合の良い存在、精神的に分離する以前の母子にも似た、自己と未分化の存在にすぎず、しかもそのことに作品は無自覚である。

 ゆえに、新海作品には真の意味でのコミュニケーションというものが存在しない。なぜなら、コミュニケーションとは「外部」や「他者」との間でのみ存在するものであって、自己に向かって投げかけられる言葉は結局のところ独白にすぎないからである。

 

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(C) Makoto Shinkai / CoMiX Wave

 

 さらにアニメ映画として致命的なのは、背景美術に比してキャラクター造形があまりに弱いということだ。端的に言うと、新海作品に出てくるキャラクターは商業映画としては素人くさく、しっかりとキャラの立った、魅力的な造形とは言い難い。

 また主人公とヒロイン以外の登場人物についてはほとんど出てこず、登場しても宮崎アニメのキャラクターに酷似した外見、表情を有しており、モブキャラクターだからだとしても、造形的に凡庸と言わざるをえない。

 アニメ映画である以上、その魅力の決して小さくない部分をキャラクターが担っているわけで、そのキャラクターが弱いというのは決定的な弱点だろう。

 とはいえ、新海映画の目指すものが、「物語展開や会話といった演出的アプローチで提示されることのない、観客の主体的理解によってのみ合意される、お互いに好意を持つ男女の関係性」が「物理的に離れていくことによって失われる喪失感」を「自閉的な主人公の独白」と「クリスチャン・ラッセンのような背景美術」で表現することであるならば、驚くに値しない。

 映画の主役はあくまで背景美術と観客に対して開かれることのない内的情緒(村上春樹的喪失感)であって、キャラクターでも物語でもないからだ。

 この点は新海作品を読み解くにおいて重要だと考えられる。すなわち、新海氏は映画制作において、キャラクターも物語も本質的には必要としていないということだ。これは既存のアニメ映画の文脈からいうと、極めて異例のことである。

 

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 (C) Makoto Shinkai / CoMiX Wave

 

 ある情緒を表現することを主眼とした映像作品は、必然的に観客の感情移入を強く要求するにもかかわらず、観客の感情移入を誘導する作品上の仕掛けがないか、あっても弱いということは、すなわち、無条件に新海氏の作品世界に共感できるコードを持った観客でなければ、映画に没入できないということを意味している。

 新海氏が影響を受けたと公言している村上春樹の作品においても、『ノルウェイの森』に代表される「喪失感」を描いた作品は過去あったし、それらは新海映画と同様、物語性が必ずしも強い小説ではなかった。

 だが、村上春樹の小説では相応の枚数をかけて「喪失感」を表現することに成功しており、読者がその読書体験の中で情緒に至ることができるよう、丁寧にエピソードが積み重ねられている。それほどに、「情緒」の伝達をテーマに置いた表現は難易度が高いものであり、作品内にはそれなりの仕掛けが求められるのである。

 小説とアニメ映画では有効な表現手法は異なるし、それぞれ固有の制約もあるが、少なくとも30分、1時間といった短い尺のアニメ映画における、背景美術による主人公の心象表現、という新海氏の手法は残念ながら成功していない。もしくは、コードを共有する観客にしか通用していない。

 一般的にアニメ映画が物語性から逃れられない以上、観客はその物語に沿って作品を受容せざるをえず、その物語を駆動させるキャラクターの魅力や脚本技術を総動員してこそ、総合芸術としての映画作品はそのポテンシャルを100パーセント発揮することができる。

 にもかかわらず、背景美術(極論するとワンカット)だけで観客の心を動かそうとする試みは、それこそかつてのホドロフスキーキューブリックタルコフスキーといった、特別な能力を持った巨匠監督のみ成し得た、極めて高い映像表現の頂を目指すということである。

 

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 (C) Alejandro Jodorowsky / ABKCO Films

 

 だが、最新作の『君の名は。』では、従来の新海作品のウィークポイントが、ある程度解消されるよう、製作上の配慮がなされている。

 

(C) 「君の名は。」製作委員会

 

 キャラクターデザインに田中将賀作画監督に安藤雅司を迎え、原画には日本アニメ界で活躍するアニメーターをふんだんに投入している。これによって、明らかに従来の新海作品とは異なるキャラクター造形、107分の尺に耐えうるアニメーションが実現している。

 作品のテーマも前述の二作から大きく舵を切り、あくまで若い男女二人の「きみとぼく」の世界が軸であるものの、「三年前に隕石落下によって消失したヒロインとその町を救う」ことがストーリーとして設定されている。観客は主人公(瀧)とヒロイン(三葉)がある朝突然入れ替わる日常を見せられながらも、その時間軸に三年間のギャップがあることを知らされずに物語が進むので、物語中盤、謎解き的カタルシスが得られるようになっている。

 このような商業映画としての脚本のクオリティー改善については、脚本会議の場を通じて、東宝サイドから新海氏の脚本に対するチェックがなされた結果であることを、新海氏本人がインタビューで語っている。

 

diamond.jp

 

 だが、こうしたプロフェッショナルなサポートが脚本に対して為されたにもかかわらず、新海作品に過去見られた問題点がすべて払拭されているわけではない。

 

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(C) 「君の名は。」製作委員会 

 

 瀧と三葉は互いに一日だけ入れ替わる日を何度も迎えるのだが、その間二人は直接的に連絡を取っていないのはなぜか?(電話番号の交換はしているにもかかわらず)

 糸守町のクレーターで黄昏時に再会した際、なぜ互いの掌に名前を書かなかったのか?

 こういった合理性に欠ける脚本の技術的瑕疵はいくつもあるが、なかでも恋愛映画でありながら、瀧と三葉が互いに恋に落ちるというシーケンスを一切描かないまま、暗黙の了解のうちに二人が恋に落ちているのは、過去の新海作品と同様に演出として不十分と言わざるをえない。

 映画の劇中で登場人物同士が恋に落ちる場合、二人が心を通わすきっかけとなるシーンや出来事、もしくは二人の心理的変化の象徴が観客に提示されることが多いが、本作ではそれが見当たらない。

 あえて拾い上げるとしたら、奥寺先輩と瀧がデートをした後、「昔、私の事がちょっと好きだったでしょ。そして今は、別の好きな子がいるでしょ」と言われることで三葉のことを好きだった自分に気づく、という演出だったのかもしれないが、それ以前のシーンで二人が「互いに」好意を寄せていることについて、説得力のあるシーンはなく、演出上の仕掛けとしては弱い。

 もっともこの点については新海氏と東宝の脚本だけの問題ではなく、現代日本映画が全般的に抱える問題とも言える。

 日本映画はハイコンテクストであるといった言説が流通しているが、それは日本社会のハイコンテクスト性に帰属する問題ではなく、あくまで脚本術における技術的な問題である。

 現代の日本映画はメディアミックスによる原作付きの映画が多く、メインターゲットも原作の読者・視聴者を中心に設定されている。そのため、作品に初めて触れる観客への配慮が十分になされず、同じ日本人であっても原作を知らない観客は作品への没入が困難であることが多いが、そのような不親切な脚本は、原作付きのみならず、広く日本映画に見られる残念な点である。

 

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(C) 「君の名は。」製作委員会 

 

 瀧と三葉が暗黙のうちに恋愛関係になるというのは、これまでの新海映画でも見られたのと同じ事象、すなわち、主人公は無条件にヒロインに受容されるという事象であって、これはハーレムものに代表されるラノベの類型でもある。

 その考察については既に多くの方々によって論じられておりここでは割愛するが、異性に全面的に受け入れられる、性的な全能感をくすぐる物語というのは、思春期の(厨二的な)男子と親和性が高い。

 そして、『君の名は。』は、おそらくターゲットとして想定しているであろう中高生以上の若年層男子に対するフックとして、性的なモチーフ、シーンが多く出てくる。

 高校生の男女が肉体を入れ替わる訳だから、入れ替わった相手の乳房や性器への関心というのは当然あり得るし、そうして相手の肉体や性器に触れることで、入れ替わった相手への性的関心が高まっていくことも、あり得ることだろう。相手の肉体への性的な接触が何度も行われることも、想定できないことではない。

 だが、それを青少年向けのアニメ映画で、何度も観客に見せるということは、物語の駆動に直接的な影響がない以上、演出として極めて幼稚だし、そういった脚本や演出をよしとする制作サイドの精神性も、残念ながら同じく幼稚なものと言わざるをえない。

 その他にも、三葉の仕える神社の行事として、口に含んだ米を唾液と合わせて吐き出し、経年発酵させて酒にするという設定とそれにまつわるシーンや、瀧が奥寺先輩たちと糸守町を探しに旅した際、宿で寝返りを打つ奥寺先輩の下着が見える様子など、どこか不自然な印象が拭えない。(端的に言うと、気持ち悪い)

 この気持ち悪さとは、女性を性的に消費する対象としか見ていませんよ、という男性本位の眼差しが、無自覚、無批判的に作品に持ち込まれていることの気持ち悪さでもある。

 自覚的、批判的に持ち込まれればいいのかというのはまた別の議論になると思うが、少なくともそのように客観的、自己批評的視野を伴ってなされた演出は作品の質を高めるものだ。

 新海氏の脚本が持つこうした性に対する無自覚な幼稚性を、脚本会議の場で東宝サイドは指摘、是正すべきであったし、もし仮に「こういう演出、受けますよね」と安易に考えて脚本を通したのだとすれば、あまりに観客を馬鹿にしてはいないだろうか。

 ちなみに、本作における気持ち悪さについて、女性からの視点で言及されたツイートのまとめサイトがある。個人的には共感する内容のツイートが多かった。

 

togetter.com

 

君の名は。』は東宝のサポートを得て、商業アニメ映画としてよくできた作品である。

 にもかかわらず、脚本会議等を通じた東宝サイドのディレクションをもってしても、旧来の新海作品に見られた制作サイドのスタンス、すなわち、かつて村上春樹的喪失感に憧れた、身勝手で一方的な、性的な未成熟さを含む「厨二」的な精神性を漂白することはできなかった。

 これはつまり、商業的にプロフェッショナルな東宝のサポートが、現時点における新海作品の限界を明らかにしたとも言える。

 

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 (C) 「君の名は。」製作委員会

 

 新海誠の作品が時代性とシンクロしていく力を秘めていることは、ゼロ年代に作られた『ほしのこえ』や、震災後の災厄と救済をテーマにした『君の名は。』を見ても明らかである。フロックで興収が100億円を超えることなどありえない。時代と共振したからこそ、これだけのヒットに至ったのであり、こうしたシンクロニシティーは技術論では説明できない。

 およそクリエイターやアーティストで、次回作こそを自身の最高傑作にしたいと作品の向上、発展を願わない者はいないが、では今回明らかになった新海作品の限界は、どのようにして克服できるだろうか。

 

 まず、物語に関しては新海氏の直接的関与、創作の割合を減らし、少なくとも原案のみにとどめるべきだ。脚本については新海氏とは別にライターを立てるべきである。それは演出的観点からより高品質な脚本を得るため、また厨二的な要素を脚本から漂白し、より成熟した精神性を備えた物語を創造するためである。

 もしくは、新海氏が共感する小説なりマンガなり、他の原作をベースに映画を製作するのも面白いかもしれない。例えば氏が大好きな村上春樹の小説(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』等)をアニメ映画化するという試みはどうだろう。

 いずれにしても、新海氏は脚本にタッチせず、背景美術および作品のトーンコントロールをする全体統括に集中すべきだ。そうでなければ、技術的にも精神的にも、より成熟した脚本を自身で開発する必要がある。

 

 成熟が必ずしも善であるとは考えない人もいるだろうし、既成概念や王道へのアンチテーゼとして、未成熟である事をよしとする考えもあるだろう。

 だが100年以上にも及ぶ映画史、そうでなくとも宮崎、大友、富野、庵野と続く日本アニメ映画史の偉大な先人たちの後に続く道を歩いている者が、いつまでも十二、三歳の精神性を作品に持ち込んだまま止まっていて、果たしてよいのだろうか。

 若年層向けのアニメ映画だから、幼稚性を持ち込んでもいいと考えるのは全くの誤りだ。子供たちは大人が考えるより、思春期特有の危うさを孕みながらも、はるかに成熟し、精神的に自立している。

 子供たちは幼稚だと見なすのは、自らが幼稚性に回帰したいと願う未成熟で疲れた大人の願望の投影に過ぎない。

 たとえ商業作品であったとしても、この程度でいいだろうと勝手に観客のスタンダードを定めることなく、創作者は可能な限りの高みを目指すべきだ。

 想定するターゲットとの兼ね合いでハイブロウになりすぎないよう作品をコントロールする商業上の要請はあるとしても、作品の精神性をデグレードする必要はない。

 

 性的な未熟さを含む厨二性が新海作品の根幹を成しており、最大の魅力であるならば、成熟などする必要はないし、本稿の指摘もその大半は意味をなさないだろう。

 だが果たしてそうだろうか?

 新海誠の目指す表現の地平は、まだ遥か先にあるのではないだろうか?

 もしそうならば、制作における技術と精神性はより磨き上げられるべきだし、そのために必要なものはただ一つ、成熟への意志なのである。(了)